以前書いた私たちに1日3食は本当に必要か?の記事の続きになります。
私たちの周りには小麦を使った製品が多くあって、朝食はパンとコーヒー、お昼は手軽なサンドイッチやうどん、夜は飲み会の後に〆のラーメンを食べたりします。どれも手軽で便利なものばかりです。
そもそも1日3食という食習慣が始まったのは、西洋でも200年足らずです。西洋の1日3食の普及にはこんな裏話があったことはご存知の方も多いと思います。
かの有名な発明家、トーマス=エジソンは、インタビューの中で「どうしてそんなに素晴らしい発明が次々と考えられるのか?」と尋ねられた際に、「私は一日三食食べているからだ」と答えたからだと言われています。
当時から著名人であったエジソンの言葉に皆があやかろうとしたわけです。一日二食だった習慣を、三食とる人が増えました。
しかし、エジソンがこう話したのは、自身がそれ以前に発明したパン焼き用のトースターの売り上げが芳しくなく、皆が1日3食食べるようになれば売り上げが伸びると考えたから、とも言われています。
安くて栄養の少ない小麦で作られた食品はこうして広まっていったのですね。
ところで日本はどうだったのでしょうか?
日本でも江戸時代まで一般的な日本人は1日2食で生活をしていたと言われています。しかし、大工や職人など力仕事をする人たちが昼食を摂るの習慣が徐々に一般の民にも広まっていったとか。また、江戸時代以降は蝋燭の普及によって、生活時間帯が長くなり、お腹が空いて1日3食文化が定着したという説もありますが・・・
私たちは子どもの頃から、時間がなくても「朝ごはんはしっかり食べなさい!」と言われ、学校では1日3食、規則正しくバランス良く食べましょう!」と教えられてきました。厚生労働省でも1日3食を推進しています。
食生活のあり方を簡単に示した栄養3・3運動
「栄養3・3運動」は、健やかな毎日のための基本的な食生活のあり方を簡単に示したもので、「3・3」は3食・3色を意味し、毎日、朝・昼・夕の3食と、3色食品群のそろった食事をとるよう勧めています。
www.e-healthnet.mhlw.go.jp
出典:厚生労働省 生活習慣病予防のための健康情報サイト
そんな環境の中で育ってきた結果、お腹が空いていなくても時間がくれば何となく食事をしていますが、日本では、江戸時代までは1日2食というのが主流だったそうです。現代病であるアレルギーやアトピーによる肌荒れは1日3食による「腸の使い過ぎ」が原因の1つとも言われています。確かに『肌は腸の裏返し』というのを聞いたことがあります。ニキビや肌荒れも、食べ過ぎによって腸や内臓が疲れてしまうことから起こります。
いつから1日3食が当たり前のようになったのか、日本の食文化を振り返りながら調べてみました。
縄文時代
縄文時代はまだ農耕自体発達しておらず、狩猟、漁猟、食物採集の文化でした。
縄文人たちは採集した食物を食べ、余ったものは穴や屋根裏に貯蔵して、必要に応じて取り出しました。貯蔵されていた食物は、クルミ、クリ、トチ、ドングリなどの堅果類が中心でした。このことから、縄文人の主食はこれら堅果類であったと推測されます。また、弓矢でシカやイノシシを狩ったり、魚を捕まえたりしてタンパク質を補っていました。
弥生時代
弥生時代になると日本に稲作が伝播し、農耕生活がスタートすることによって、日本人は狩猟採集生活と比べて安定した食料供給を行えるようになりました。同時に定住生活が可能になり、人口もぞ増加しました。
遺跡を調べることにより、米だけではなく、粟や稗、小豆などの穀物も栽培されていたことがわかっています。これらの穀物は炊いて雑炊のようなかたちで食べられていました。
奈良時代
奈良時代には米は日本全土に広まり、中央集権国家で米を税として貴族階級が徴収するため、貴族階級は米食であったのに対し、庶民が食べるための米はほとんどなく、粟や稗などの雑穀を主食としていました。
つまりこのころから貴族食と庶民食の区別がされてきたということになります。また貴族の間ではこのころ仏教がはやり、また675年の天武天皇の殺生・肉食禁止令もあり、貴族からは肉が消えてその代わりに高級な乳製品である蘇が補われたりしました。この風潮が平安時代ごろに発展し始める精進料理の原型になりました。
平安時代
平安時代は現代における日本食の基礎が出来上がった時代です。
平安時代の貴族の生活は、地方の庶民の多大な犠牲の上に築かれたものであったので、貴族階級と庶民階級との生活の落差は奈良時代よりも顕著となっていました。
貴族の食膳は調味や栄養よりも、盛り合わせの美をより尊重する、見る料理を育成することになりました。この形式的食生活は、日本食の性格を後世にまで規制する源泉ともなりました。
一方で奈良時代から上層階級で用いられてきた牛乳や乳製品はますます多く用いられましたが、貴族階級の衰退や宮廷の財政難、度々の戦乱と武家勢力の台頭などにより、入手は少なくなって、肉食を禁止していたことも相まって体格の発達を著しく阻害する結果となりました。
庶民にはまだ仏教の戒律は浸透しておらず、動物を捕らえて食べていました。しかし生活は貴族とは格段の差で低いものであったため、前時代と大きくは変わりませんでした。貴族食の中でも特に儀式や接待用の食膳は「盛饌」と呼ばれ、その形式は日常の食膳にも及んでいったと言われています。
鎌倉時代・室町時代
平安時代の貴族、僧侶といった上流階級は形式的な食事を重視し、仏教の影響を受けて肉食を禁止した結果、食品の種類はかたより不健康な食風でした。
武家の世となると玄米食と獣肉を自由に食す風潮が広がります。平家の衰亡を教訓として質素倹約に努め、栄養価の高い食生活で“もののふ”の活動エネルギーを蓄えたのです。平安時代と比べると簡素な食風ですが実際的で健康な食生活に変化していきました。
武士の棟梁は地方貴族でしたが、大半の武士は農民の出身で戦時は武器を持って闘いますが、平時は土着して土地を耕作する食糧の直接的な生産者だったのです。
彼らは狩りによって得た獣肉はそのまま彼等の食料としていたので、貴族が嫌がろうとも気に止めず、洛中の寺院の境内で公然と肉食の宴を開いたりしたそうです。
新仏教や禅宗も登場し、次第に貴族や僧侶の方が武士に感化されていき、獣肉を食すことは禁忌ではなくなってしまいました。
安土・桃山時代
安土・桃山時代になると、西瓜、南瓜、玉葱、唐辛子、甘藷、ジャガイモ、トマト、ほうれん草、葡萄、南京豆、イチジク、バナナが外来してきました。
ジャガイモはジャガルタ=ジャガタラを経由したことからジャガタライモと呼ばれていました。 甘藷は既に琉球で栽培されていた物が薩摩に入ってきたため薩摩では琉球芋と呼ばれ、その他の地域では薩摩芋と呼ばれていました。
油で揚げる=天ぷら、がんもどき、砂糖を使う南蛮菓子=カステラ、ボーロ、金平糖などの料理法も外来してきました。
この頃、茶の湯の流行に伴い、新たな食事形式として懐石料理が登場しました。懐石とは僧侶が空腹を紛らわせるために懐に暖めた石をいれたことに由来し、茶を楽しむ前に空腹を和らげるために出される食事で、茶をもてなす主の趣味趣向が反映されるものです。
それまでは、貴族の伝統を継承した本膳料理が武家の正式な食事で、複数の御膳に数多くの料理を決まった位置に置き、食べ方も手順が決まっている形式張ったものだったそうです。これに対し、禅の思想が入った懐石は、質素で形式張らず洗練されたものとなっています。
江戸時代
江戸時代には、国内に平穏が続き、農業と漁業が大発展します。新田開発や品種改良、新しい漁場や漁法の開発が時代を通して行われてゆきます。収穫量の増大は、都市部人口の増大と共に市場の拡大を促し、魅力的な料理となってゆきます。
江戸時代になって本格的に醤油が使われるようになります。それまで調味料と言えば、塩、味噌、酢でした。 また、砂糖、昆布、鰹節が現れます。多くが専門メーカーによって作られ、市場に流通して行きます。
一方、大多数の農民や下層町民は何を食べていたかというと、農作物が増産されても農民が常に米を食べていた訳ではありません。地域によって大きな差がありますが、普段食べていたのは米半分、雑穀半分でした。これに菜を混ぜ込み、一緒に炊いて食べることが多かったようです。
都市部では米が流通しており、庶民も基本は米を食べていたようです。ちなみに、屯食と呼ばれた携帯食が、おにぎりと呼ばれて一般的になるのが江戸時代です。
明治時代
○明治初期
西洋料理が移入され、上流階級と知識人を中心に浸透、されには和洋折衷である洋食が生まれました。 しかし、洋食の普及は上流階級や都市部に限られ、庶民の日常の食事は和食が大半であり、特に農村部や貧困層の食生活においては、その影響は広がってはいませんでした。
洋食は江戸時代に長崎で多く食べられていましたが、幕末になると多くの人々が洋食に接する機会が増えました。明治維新前後になると、洋食は開花の食事として上流階級・知識人を中心に、食べる人々が多くなりました。まだ洋食の味がわからない時代でもあり、福沢諭吉は、西洋料理を奇異に感じながらも、作法について紹介したりしています。
西洋文明は優れていると見なされる風潮の中、滋養目的で、明治天皇が肉を食したことが、大衆に大きな影響を及ぼしました。また牛肉食は文明開化の象徴とされ、牛肉を食べないものは文明人でないというような風潮から、肉食は、まずは牛肉食としてそのまま取り入れられましたが、やがて日本古来の調理法を応用し、牛鍋、いわゆる「すき焼き」としてアレンジされ、流行しました。
但し、日本の家庭においては、座式の生活様式をとっていたため、西洋の食事習慣をそのまま取り入れるのは不可能なこと、食材が高価なこと、日常食とはあまりにも違いすぎていることより、普及はしなかったのです。
○明治中期 上中流階級への西洋料理の浸透○
西洋料理の調理技術が日本的に再編成され、フライ・油料理・牛豚料理など、西洋風の新しい作り方を紹介する雑誌も登場し、料理雑誌の紙面の過半を占めるようになりました。但し、実際に西洋料理を作る家庭はほとんどありませんでした。西洋料理が、上流階級や知識人により公的な場を中心にして普及していきましたが、その理由を、明治30年刊の「等級繁昌記」には、次のようにを挙げています。
1.西洋料理の長所は簡易であること。
2.日本料理は酒(日本酒)を好まない人には、宴会などでも手持ちぶたさを感じるが、西洋料理は酒の種類も多く、飲みたい酒が飲める。
3.好きな料理がくれば食べ、好まないものは食べなくてよい。
4.献酬や給仕しなくてもすみ、芸妓などを招く必要もなく、会食ができる。
○明治後期○
本格的な西洋料理に変わり、和洋折衷料理としての洋食が台頭してきます。 洋食は、米飯に適したおかずとして、また気楽な西洋料理として、箸で食べることができ、栄養的にも優れているという点で、普及し始めます。 また、調味料として、ソースが香辛料と共に盛んに使用されるようになりました。 但し、普段の家庭での食事メニューは、和食が中心であり、たまに洋食を作り食べる程度でした。
大正・昭和
家庭料理の中にも洋食が少しずつ浸透し始めますが、家庭の料理というよりは外食としての洋食がより庶民に浸透していきます。都市化が進む中で大衆食堂を中心に全国に洋食が普及していきました。
第二次世界大戦が起こり日本本土がかなりのダメージを受けたため、国民へ食糧も十分に供給されず当時の人の栄養状態は最悪でした。終戦後のアメリカの支援による復興支援(≒アメリカ市場への組込み)の下、そして高度経済成長を経て貧困からの脱出を図っていった日本において、庶民の日常の食生活にまで欧米の影響が浸透していきました。
食料難を乗り越え、食生活も徐々に落ち着き、洗濯機、冷蔵庫、テレビといったいわゆる三種の神器がもてはやされ、食以外のものにも目が向き出した時代、食の世界にもその波が、押し寄せてきました。1955年に販売され始めた「自動式電気釜」が登場したのです。スイッチ一つで、炊き上がるこの機械は、大いに売れました。
歴史は苦手なので、こうして改めて振り返ってみると知らないことがたくさんありました。食の欧米化とその背景が現代の私たちにどのように影響しているのかを、引き続き調べていきたいと思います。
また、科学の進歩に伴い日本人の成人男子は平均して1日2500~2700kcalのエネルギーが必要だと言われるようになったのですが、現代のエネルギー摂取量は労働環境の変化とともに今では2000~2200kcalと減少して、今では健康上1日3食は体への負担が大きいとも言われているみたいですね。
さらに飽食の現代は、添加物満載の加工食品や、砂糖まみれ・油まみれの食品が増えたことで、1口で摂取カロリーも増加し、必ずしも3食食べることがヘルシーだとは言えない事態になってきています。
そのため1日3食文化を見直す人が多くなっているのですね!
ますます、オオバコパウダーの実用性を認識しました。消化されずに、腸の中を刺激してぜん動運動を促すことで、腸の中の老廃物の排泄を助けてくれる食物繊維。腸の中の善玉菌のエサとなることで腸の調子を整えるプレバイオティクスとして働いてくれる食物繊維。満足感を得られることで暴飲暴食を防いでくれる食物繊維。オオバコパウダーはその8割が食物繊維で、しかも水溶性食物繊維と不溶性食物繊維という2種類の食物繊維を1度でこんなにバランス良く摂れるものはなかなかありません。しかも食物繊維は腸の中でセロトニンという幸せホルモンを作る働きもあるのですよ。次回はその当たりのデータをまとめてみたいと思います。
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